先日、日本経済新聞に「『スマホ認知症』30代でもご用心 物忘れや集中力低下のリスク」という記事が掲載されました。スマートフォンの過剰使用によって脳が疲労し、認知症に似た症状が現れる「スマホ認知症」で悩む人が増えているという内容です。記事で紹介されていた40代の男性は、仕事で1日10時間以上スマホを使い、やがて顧客の名前が出てこなくなったり、道を間違えたり、家族の話に興味を持てなくなったりといった変化に気づいたといいます。専門外来を訪れる人は月に30〜40人程度で、特に目立つのが30代を中心とした働き盛りの男女なのだそうです。
私が興味深いと感じたのは、この「スマホ認知症」が通常の認知症とは似て非なるものだという点です。記事によれば、アルツハイマー病などの一般的な認知症は神経細胞の死滅が原因で、進行し、患者の中心は65歳以上です。一方のスマホ認知症は「情報過多による脳疲労」が原因で、症状を自覚できる場合が多く、進行はしない。そして対処法は投薬やリハビリではなく、生活習慣の改善が中心だといいます。脳には「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という、ぼんやり過ごしているときに情報や記憶を整理する回路があるそうですが、絶えず情報を受け取り続けることでこの機能が乱れ、脳内が情報の散らかった「ごみ屋敷」のようになってしまう——。この比喩には、思わず膝を打ちました。「スマホ認知症」という言葉自体、私は初めて耳にしましたが、正式な病名ではないと知って妙に腑に落ちると同時に、通常の認知症との違いがはっきり理解できました。
それにしても、30代でも可能性があるというのには驚かされました。というより、この時代、いったいどれだけの人が「予備軍」ではないのか、と考えさせられます。子どものスマホ依存がしきりに問題視されていますが、正直なところ、私を含めた多くの中高年もまた、朝から晩までスマホを手放せない生活を送っていることは否めません。電車の中を見渡せば、老いも若きも一様に画面に見入っている。あの光景を思えば、これは特別な誰かの病気ではなく、現代人の多くが薄く広く抱えている問題なのかもしれません。
では、どうすればいいのか。定期的に「デジタルデトックス」を実践すれば防げそうな気もします。ただ、これが案外難しい。今や生活で起きるあらゆることを、スマホ一つで完結させるような社会になっているからです。連絡も、決済も、予約も、道案内も、すべてがあの小さな画面の中にある。意識的にスマホから離れようとしても、離れた途端に生活が回らなくなる。そんな構造のなかで「使わない時間をつくる」というのは、言うほど簡単ではありません。そもそも、デジタルデトックスをきちんと実行できるほどセルフコントロール力の高い人は、おそらく初めからスマホ認知症にはならないのではないか、とも思うのです。
記事を読みながら、私なりに感じたことがあります。表現は悪いのですが、スマホ認知症になりやすいのは、スマホから流れてくる情報を無意識に、制限なく受け容れてしまっている人、そして目的もなくスマホをダラダラと使い続けている人が多いのではないか、ということです。DMNが乱れて脳が「ごみ屋敷」になるという説明は、まさにこの「無目的な情報の垂れ流し」を言い当てているように感じました。何かを調べる、誰かと連絡を取る、という明確な目的をもって使っているぶんには、脳もそこまで疲弊しないのではないか。問題は、手持ち無沙汰を埋めるように、意味もなく画面をスクロールし続けてしまう、あの時間なのだと思います。
そういえば昔、「テレビばっかり見てるとバカになるぞ」とよく言われたものです。今思えば、あれもこれと同じような意味だったのかもしれません。受け身のまま情報を浴び続けることが脳を鈍らせる、という指摘は、メディアがテレビからスマホに変わっただけで、本質は昔から変わっていないのでしょう。
一方で、記事を読んで一つ疑問に思ったこともあります。それは、高齢者の使い過ぎは認知症につながらないのだろうか、ということです。本コラムでは第270回や第277回で、高齢者のような情報弱者になりがちな方々こそ、スマホをどんどん使って生活に生かすべきだと繰り返し書いてきました。その考えは今も変わりません。しかし、この記事を目にすると、正直なところ少し不安にもなってきます。もっとも、スマホ認知症の患者の中心が30〜50代とされているのを見ると、これは「脳をフル稼働させて情報を処理し続ける働き盛り」に特有の現象なのかもしれません。高齢者の方が、明確な目的をもって、生活を豊かにするためにスマホを使うぶんには、むしろ脳への良い刺激になる面もあるはずです。要は、使う量ではなく使い方、ということなのでしょう。
こう考えていくと、行き着く先はいつもと同じ結論です。インターネットには連日、様々なデマや印象操作のような記事があふれています。AIもハルシネーション(もっともらしい誤情報の生成)が少なくなく、思わぬところでそれに引っかかってしまうこともあります。便利な道具であればあるほど、受け手側がしっかりしていないと、簡単に振り回されてしまう。AIを使っていくのは人間なのですから、AIの進化以上に、それを使う私たち自身が進化していかなければならないのだと、改めて感じます。意思決定をするのは私たちであり、目的を持って使うのも私たちです。月並みな言葉ですが、AIに使われるのではなくAIを使う。スマホに使われるのではなくスマホを使う。そういう主体性を持った付き合い方でありたいものです。
そう考えると、今しきりに騒がれている子どものスマホ規制なども、ある意味では理に適っているのかもしれません。まだ主体的な使い方を身につけていない段階の子どもに、無制限に情報を浴びせ続けることの危うさは、この「スマホ認知症」の話とも地続きだからです。ただ、本コラム第275回でも書いたように、私はやはり、規制をすること以上に、正しい使い方をしっかりと発信し続けていくことのほうが大切だと考えています。禁じるだけでは、道具を使いこなす力は育ちません。脳を「ごみ屋敷」にしないための付き合い方を、大人も子どもも、社会全体で学び続けていく。その地道な啓蒙こそが、これからますます求められるのではないか。改めて、そう感じた今日この頃です。