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第290回 スマホ片手の「ひとり飯」に思う、「飯でも食うか」が紡いできたもの

2026/09/26

先日、日本経済新聞の「NIKKEI The STYLE」に、「スマホ片手に『ひとり飯』 デジタル時代が生んだ新たな食の作法」という記事が掲載されました。近年、ひとりで食事を楽しむ「ひとり飯」が、世代を超えて広がっています。やむを得ず一人で食べる「孤食」とは違い、自ら選んで、誰にも邪魔されない時間を楽しむ食のスタイルです。10年ほど前までは若者の間で「ぼっち飯」と揶揄されることもあったひとり飯が、なぜ市民権を得たのか。法政大学の南後由和教授は、その大きな理由として「スマートフォンやSNSの普及」を挙げています。目の前の家族や友人と話す代わりに、画面の向こうの誰かと「対話」する。その姿は、「孤食」という言葉が帯びる寂しさとは遠いものだといいます。コロナ禍で広がった「黙食」の定着や、ひとり焼き肉・ひとり鍋といったソロ客向けの店の増加も追い風となり、米国の「ソロ・ダイニング」、韓国の「ホンパプ」など、海外にも同じような動きがあるそうです。記事は、常葉大学の七星純子助教の「現代のひとり飯は共食でも孤食でもない食の形式といえる」という言葉を紹介し、カウンター席に着いてまずスマホを置く所作は、ナイフやフォークを並べるような、デジタル時代の新たな食卓作法になりつつあるのかもしれない、と結んでいます。

私は仕事柄出張も多く年間平均100泊以上はしています。必然的に一人で食事をする機会がとても多く、スマホを相棒に食事やコーヒーを楽しむ自分の姿は、もはや日常の一コマです。振り返れば、昔も喫茶店やラーメン屋で漫画や新聞を広げながら食事をする人はいました。けれども今は、どの飲食店に入っても、スマホと向き合いながら食事をする人の姿が当たり前のようにあります。時代の景色が確実に変わったことを、出張先の店で実感します。一人で食べていても、画面の向こうには誰かがいる。その意味で、スマホの普及は「一人めし」の概念そのものを変えたのだと思います。記事の「共食でも孤食でもない」という表現は、まさに言い得て妙だと感じました。

一方で、記事を読みながら私が気になったのは、一人ではなく、誰かと一緒にいるときにもスマホを手放せないという光景です。以前、ファミリーレストランで仕事をしていたときのこと。ランチタイムに若手社員らしき4人が入ってきて、メニューを見てそれぞれ注文を済ませると、その後は全員がスマホを見ながら黙々と食事をし、食べ終わるとまた4人そろって職場へ戻っていきました。その光景に、私は何とも言えない違和感を覚えました。おそらく今では、それほど珍しいことではないのでしょう。

もっとも、偉そうなことは言えません。恥ずかしながら、我が家でも外食の際、料理を待つ間に家族それぞれがスマホを見ている場面はよくあります。もちろん、スマホがいつも会話を奪っているわけではありません。話の途中で気になったことをその場で調べたり、撮った写真を見せ合ったりすることで、かえって会話の幅が広がることもあります。ある意味では、家でテレビを見ながら食卓を囲むのと同じ、とも言えるでしょう。

それでも、せっかく誰かと一緒に食事をするのなら、やはり会話やつながりを楽しみたいと思うのです。仮に言葉が少なくても、その空間を共有すること自体に意味がある。目の前の人は最近どうしているだろう、何を考えているのだろうと思いを巡らせる。記事の筆者が居酒屋で感じた「言葉を交わさなくても、時間と空間を分かち合える心地よさ」は、本来、目の前の相手との間にこそ生まれるものではないでしょうか。記事はあくまでひとり飯について論じたもので、集団での食事には触れていませんが、一人のときと誰かといるときとで、スマホとの付き合い方を「使い分ける」ことが大切なのだと私は考えます。

記事で紹介されていた、ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルの言葉も考えさせられました。食べたり飲んだりするという最も個人的・生理的な行為は、単なる栄養の摂取にとどまらず、人と人とがつながる重要な機会になる――。私が懸念するのは、一人で食事をすることが当たり前になるにつれ、誰かと一緒に食べたり飲んだりすることへの関心そのものが薄れ、その時間に価値を見いだせなくなっていくのではないか、ということです。

日本の職場では昔から、「飯でも食うか」「お茶でもしようか」という一言が人間関係をつくってきました。上司が部下を昼食に誘う、先輩が後輩をコーヒーに連れ出す。会議室では言いにくかった悩みや本音が、食事の席ではふっとこぼれる。研修でお伝えしている心理的安全性も、実はこうした何気ない時間の積み重ねから育まれていくものだと思います。一杯のコーヒーであれ、一杯の牛丼であれ、共有する時間そのものに意味があるのです。

前回の第289回では、AIの普及によって、先輩の横について覚えるOJTの機会や、一緒に汗をかく中で生まれる連帯感が失われかねないと書きました。今回の「ひとり飯」の話も、根っこは同じところにある気がします。デジタルは、一人の時間を豊かにしてくれる心強い道具です。しかし、その便利さに身を委ねるうちに、人と人とが同じ時間と空間を分かち合う場まで、知らず知らずのうちに手放してしまってはいないか。人材育成や組織づくりに携わる者として、「飯でも食うか」と声をかけ合う機会が少しずつ減っていくことに、一抹の不安を感じる今日この頃です。

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