先日、熊本県で最大震度7を観測する大きな地震が発生しました。今回はいつものように新聞記事を題材にするのではなく、隣県である鹿児島出身の一人として、そしてデジタルと人との関わりを考え続けてきた者として、率直な思いを書かせていただきたいと思います。まずは、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りするとともに、被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。10年前の熊本地震からようやく復興を遂げ、街並みも人々の暮らしも取り戻してきたところで、また同じ土地がこのような目に遭う。その事実に、ただただ胸が痛みます。
10年前の地震のときも、私は所用があって熊本を訪れ、被災の状況をこの目で見ました。倒れた家々、傷ついた街の姿は、今も脳裏に焼き付いています。熊本在住の同級生からは、いつまでも収まらない余震のせいで、子どもが精神的な病を抱えてしまったという話も聞きました。本コラム第266回や第274回で心の不調の早期把握について書きましたが、災害がもたらすのは目に見える被害だけではありません。揺れが収まった後も、長く尾を引く見えない傷があるのだということを、あのとき教えられた気がします。
今回はたまたま、鹿児島を訪問してから福岡へ移動するという予定を組んでいたのですが、九州新幹線が運休となり、計画は大幅な変更を余儀なくされました。私のそれなど、被災された方々のご苦労に比べれば何ほどのこともありません。ただ、こうした事態に直面するたびに思うのは、私たちは自然にはまるで抗うことができないのだ、人間とはなんと無力なのだろう、ということです。
そのうえで、デジタルやオンラインという観点から、今回いくつか感じたことがあります。
一つは、通信についてです。今回に限っては「つながらない」という話をあまり耳にしませんでした。もちろん現地では困っている方もいらっしゃるでしょうし、私が知らないだけかもしれません。しかし少なくとも、大規模災害のたびに繰り返されてきた通信途絶の混乱が、以前ほど前面に出ていないように感じます。衛星通信のスターリンクなどが役に立っているのでしょうか。本コラム第276回で、通信は電気や水道と同じく止まることの許されない社会の「土台」だと書きましたが、その土台が非常時にも踏みとどまっているのだとすれば、これは本当にありがたいことです。
むしろ問題は、バッテリーではないかと思います。どれだけ回線が生きていても、電源がなければスマートフォンはただの板です。連絡も、情報収集も、安否確認も、すべてがあの小さな端末に集約されている以上、電池切れは情報からの遮断とほぼ同義です。そう考えると、これからのデバイスは、長時間駆動のバッテリーや太陽光による充電といった領域にこそ、もっと力を入れるべきではないでしょうか。処理速度やカメラ性能の競争もいいのですが、いざという時に「動き続けられること」は、それらに勝るとも劣らない価値だと思うのです。
もう一つ気になったのが、情報提供のあり方です。災害速報の仕組みは、かなり整ってきているように見えます。地震の規模も、津波の有無も、避難指示も、驚くほど速く届く。しかし、被災した方が本当に欲しい情報は、その先にあるのではないでしょうか。すなわち「この先どうすればいいのか」「どうやって生き延びればいいのか」という情報です。どこへ行けば水が手に入るのか、どの道が通れるのか、どこで風呂に入れるのか、持病の薬はどうすればいいのか。そうした具体的で切実な情報が、スピーディーに、簡単な操作で、分かりやすく届けられなければ意味がありません。本コラム第277回で、AIが複数のアプリを横断して用事を済ませてくれる時代について書きました。話しかけるだけで必要な情報にたどり着ける仕組みは、平時の便利さ以上に、混乱の極みにある被災地でこそ真価を発揮するはずです。
そして、支援する側の問題もあります。テレビで現地の惨状が流れれば、誰しも「何かしなければ」という気持ちが湧きます。それ自体は尊いことです。しかし、送り先が分からなかったり、受け付けていない先に送ってしまったり、現地があまり欲しがっていないものが届いてしまったりする。緊急事態なのだから仕方がない面もあるとはいえ、地震や豪雨がこれだけ繰り返されているのに、社会としてあまり学習できていないのではないか、という気もしてしまいます。もっとも、そう感じる私自身が浅い知識しか持ち合わせていないからこそ、そう見えているだけなのかもしれません。
だからこそ、普段からの訓練は改めて大切なのだと思います。避難訓練のような、体を動かして覚えておく備え。ただ、デジタルや情報インフラの側については、広い範囲でリアルに訓練するというわけにもいきません。そこにもどかしさがあります。
とりとめもなく書いてしまいましたが、私が言いたいのはこういうことです。どんなにデジタルが発達したとしても、肝心なときに役に立たなければ意味がない、ということです。そして、それを使うのは、どこまで行っても人間だということです。
本コラムでは、第279回で百貨店のDXを、第280回で落語家とAIの「師匠と弟子」の話を取り上げ、デジタルとは人の力を消し去るものではなく「増幅」させる装置なのだと繰り返し書いてきました。ならば、AIがこれほど目覚ましい発展を遂げているのですから、こういう時にこそ、その力を存分に発揮させるべきではないでしょうか。膨大な現地情報を整理し、必要な人に必要な形で届ける。支援したい人と、支援を求めている人を的確に結びつける。無数の変数を休むことなく処理し続けることは、まさにAIが最も得意とするところです。人間の善意や行政の努力を、AIが増幅する。そんな形が実現できたなら、これほど心強いことはありません。
今回は、私の浅い情報と知見のままに書いています。実際にはすでに手が打たれている部分も多々あるのでしょう。もしそうだとしたら、現場で懸命に対応にあたられている関係者の方々には、お詫びを申し上げなければなりません。ただ、テレビでひたすら現地の映像が流れるたびに、行き場のないこうした気持ちが込み上げてくるのもまた、偽らざる本心なのです。
被災された地域が一日も早く落ち着きを取り戻し、そこで暮らす方々に穏やかな日常が戻ることを、心から願っています。そして、その復興の道のりのどこかで、デジタルやAIが少しでも人の力を増幅する存在であってほしい。そんなことを、隣県出身の一人として強く念じている今日この頃です。